開陽台からの眺望

 

赤いDUCAと彼の開陽台
(ごあいさつにかえて)

赤のMHR


「開陽台には赤いMHRが埋まっている」という話を聞いたことのある人はどれくらいいるだろうか?。僕はその話をもうずいぶんと昔に聞いた。

「開陽台(標高270.02m)」は世界測地系の二等三角点であり、その基準点の名称は現在でも「武佐台」である。昭和36年、この武佐台にNHKがテレビ中継局を設置した。それを契機として当時の町長である尾崎豊氏が「開陽台」と命名したのが、その翌年、昭和37年(1962)のことである。この「開陽」なる名称は尾崎町長の創作ではなく、「開陽台」の麓あたりの地名に由来する。土地の人々の間では、当時すでに「開陽の台(丘)= 開陽台」なる通称が、「武佐台」に対する別呼称として通用していたらしい。

 

開陽台の二等三角点
開陽台の二等三角点

 

 開陽台がツーリングライダーにとっての聖地となったのは、佐々木譲氏(北海道夕張市出身・中標津町在住)の小説「振り返れば地平線」(1982)に由来するとされる。1970年代後半から1980年代は、片岡義男氏のオートバイ小説全盛の頃であり、当時はこの手の「刹那的な青春の浪漫」が真っ盛りだったらしい。「・・・される」「・・・らしい」と言うのは、確かに僕もこの時代を生き、オートバイに乗り続けて来たわけなのだが、当時はこの手の書き物にはまったく無頓着だった。オートバイがらみの小説やら写真集やらに興味が出始めるということは、ある意味、自分が「夏に置き去りにされる」年齢に達し、その代償を求め始めたことの証左なのだろう。佐々木氏の件の著作に関しても、初めて読んだのは1990年を過ぎてからで、その時二十代後半の僕は「もはや甘っちょろいノスタルジー・・・」程度の感慨しか抱かなかった。

 尤も考えてみるに、僕が初めて「開陽台」を訪ねたのは17歳の夏で、これは「振り返れば地平線」以前のことになる。何とも定かな記憶ではないが、僕はこの時、どこからか予め「開陽台」の情報を仕入れた上で、中標津に立ち寄ったような気がする。そして実際に「開陽台」を訪ねた時には、盛夏ということもあり、相当数のキャンパーで賑わっていた。電車で北海道を旅しているという横浜から来た女の子を誰のテントに泊めるかでモメた記憶があるので、ツーリングライダーやドライブで来た連中だけでなく 、この娘のような普通の旅行者にも、開陽台は既に認知されていたということになる。確かに 「振り返れば地平線」以降、開陽台を訪ねる旅行者は急増したのだろうし、「聖地」としての役割を担うようにもなったのだろうが、そんな伝説めいた後付け話は、自ら記憶に留めた実体験に比べれば、どうでもよいことのように思えてくる。

 当時、「北海道」と聞けば、現在よりも遥かに激しく、「荒野への憧憬」を感じた。たとえば吉田拓郎の「落葉」を口ずさみながらフェリーに乗り込み、五木寛之を読みながら船中での時間を過ごす、なんていう案配である。もちろん当時の北海道は、もはや「純粋な荒野」ではなく、すでに「荒野の残骸」であった。いかに「さいはて」を目指そうとも、それは「真なる冒険」ではなく、「お手軽な冒険モドキ」に過ぎない。今日的な若者の「トレンド乗り」を云々する前に、僕等もまた僕等なりの若さに夢中で、それが「安易なファッション」であると気づかなかったことは反省すべきである。いずれにせよ、このようにして時流に乗せられた「開陽台」は、航空会社のテレビCMなどにも取り上げられつつ知名度を増し、ツーリングライダーに限らず、「さいはて」を目指す若者達共通の聖地と見なされるに至った。

 かつてここにあったのは、ささやかなバラックの展望台(画像下)だけだったと記憶している。北十九号線から開陽台への進入路も往路・復路の区別のない一本道だったし、キャンプサイトも現在のように整備されていなかった(公なキャンプ場としての位置づけがなされていないのは現在も同様である)。その頃から既に「長期滞在組」はキャプサイトのこちら側、「一泊組」はあちら側、にテントを張るみたいな暗黙の了解はあったような気はするが、「牢名主」みたいな連中は存在しなかった。他人と群れることや団体行動が病的に苦手で、血気盛んな17歳の僕がここで二週間近くを過ごせたのだから、その有様はアウトローの共棲体みたいなもので、さぞや居心地が良かったのだろう。幾年かが過ぎて再び開陽台を訪ねると売店ができていた。「ミツバチ族」がこぞって北海道・開陽台を訪れ、今まで肩身が狭かったツーリングライダーは「観光客」として、何となく歓迎される存在に変容した。キャンプサイトに張られたテントの数は、現在からは想像もつかないほど多く、夏の盛りには、もうどこにも新しいテントを張る隙間などないほどに犇めきあっていた。自分が齢を増したことが主因なのかもしれないが、この頃の大騒ぎにはどうも僕は同化できなかった。「開陽台でキャンプする」という行為は17歳の夏のような輝きを失った。以降、毎夏のように北海道をツーリングで訪ねはしても、開陽台で夜を過ごすことはなくなった。

 1995年になって、現在の展望台が完成する。これと期を同じくして、北海道を訪れるツーリングライダーは減少を始めたような気がする。大型二輪の教習化を契機とした、束の間のバイクブームが過ぎ去ると、開陽台のキャンプサイトはお盆休みの最中でも閑散としているようになった。一つの時代が完全に幕を閉じたのだと思う。ツーリング先で出会うのは、昨日教習所で大型二輪免許を取ってきたオヤジライダーと「自営業ハーレー」のマスツーリングばかりになり、自動車をパイロン代わりにしてスッとんでいた若者達は老い、オートバイを卒業していった。

 

旧開陽台展望台
旧開陽台展望台(開陽台展望台「風の想」より)
 

 さて、つまらない前置きが長くなったが、僕が赤いMHRの話を聞いたのは、開陽台に長逗留していた、あの17歳の夏のことだ。やることのない体たらくな若者が集えば連夜酒盛りになる。それは今も昔も変わらない(くれぐれも御注意申し上げますが、これはあくまで物語です。さらに当時と現在とでは社会的に容認されるものの尺度が異なります。飲酒運転及び未成年者の飲酒は違法行為です)。皆、ここにテントを張ったまま、昼間は摩周・屈斜路やら、野付・知床まで走りにでかける。その帰り道に誰かが酒を買い込んできて、夜は酒宴となる。酒が切れれば、誰かが中標津の町の自販機まで買いに走る。真夜中、酒を買いにでかけた帰りに、タンデムシートに幽霊を乗せてきた、なんて逸話まである。僕が聞いたのは、そんな逸話の中の一つだ。

 関西圏に住むある青年が、この開陽台を夢み、仲間達数人と一緒に北海道を目指した。青年は深紅のDUCATI MHRに乗っていた。「MHRでロングツーリングなどシンドイ」と仲間達から冷やかされながらも、彼は深紅のMHRとともに北海道を目ざす。彼は仲間達と一緒に舞鶴発(敦賀発だったかもしれない)苫小牧行きのフェリーに乗り込んだ。ところが、彼は北海道到着直前に船中で急死してしまうのである。確か「心臓発作」と聞いた気がする。彼の夢は果たされなかった。そして彼の仲間達は彼の遺志を果たすべく、彼の深紅のMHRを開陽台まで走らせ、このキャンプサイトに深い穴を掘り、そこに、彼のオートバイを埋めたのだという。

「俺はその時、穴を掘るのを手伝ったんだ」と、その話を聞かせてくれた青年は言った。彼の話を聞いて、一緒に飲んでいた皆が、酔いに任せて涙した。僕らのすすり泣きは次第に泣き声の大合唱となった。大の男が何人もワンワンと大声を張り上げて泣き、意味にならない言葉を叫き散らした。地べたに横たわって、満点の星空を見あげれば、涙に星座が歪んだ。流れ星なんて、探さなくても、いくらでも流れた。

 

こころの碑

 

 その後折々に開陽台を訪ねながらも、「こころの碑」なるものの存在に気づいたのは、新展望台の完成後のことだった。思い込みの激しい僕は、それを「赤いDUCAの彼」のためのもので、観光ブームに乗って今更造られたものに違いないと思い込んだ。碑文(下に引用)を読みながし、「ああ、中野君ていうんだ」などと早トチリしていた。碑石はバイク一台を埋めるのにちょうどよい大きさでもあった。

さて小生はいよいよ北海道へ渡ることをかたく決意しました。
現代の人間には真に自然が必要であります。
その中で同じ世代に生きる人たちの連帯感を深めることができればと思っています。
中野 英輔

 去年再び開陽台を訪ねた折に、改めてこの碑文を読み返し、「あれ、なんか変だぞ」と、初めて思った。どう考えても、この台詞は「赤いDUCAの彼」にはしっくりこない。よく見ると、碑文には更に次のように記されている。

この碑は永遠に道東の自然を愛する人たちの心です。
碑の建立にあたって文化村以外の多くの人たちの協力を得ております。
昭和46年5月27日 建立 開陽台文化村

 昭和46年というのも昔すぎるし、「開陽台文化村」なるものに「赤いDUCAの彼」が関わっていようはずがない。どうやら僕は10年もの間、大きな勘違いをしていたようだ。開陽台に眠る赤いMHRの話とこの碑の間には何の脈絡もないらしい。よくよく思い起こすに、僕が開陽台に長逗留したあの夏すでに、ここにこの碑はあったような気がする。新展望台に埋め込まれた「風の想」なるメモリアルプレートの写真をよく見てみると、確かにカメハウス(旧展望台)の隣に「こころの碑」が写っている。後日、詳しく調べてみるに、この「こころの碑」の起源は昭和41年にまで遡る。当時、たまたま中標津を訪れた東京の釣りグループがあり、彼等に対して、この開陽台一帯に「文化村」なる別荘地及び移住地を無償で提供する構想が持ち上がった。この計画は諸事情あって霧散するが、この構想にあって、この地への移住を決意しつつも、無念の事故で夭折した青年、それが「こころの碑」に刻まれた中野英輔氏らしい。「こころの碑」は彼の死後、前述の中標津町長尾崎氏や、中野氏と交流のあった作家、渡辺喜恵子さん等の発起により建立されるに至るのだが、その「建立趣意書」には、中野氏に関して次のように記されている。

彼はまったく無名の青年です。
文学を愛し、絵画を鑑賞し、音楽を聞き、人生を考え続けることは、現代の青年なら誰れでもそうでしょう。彼もまたそんな青年でした。

ただかわっているといえば、渡辺喜恵子先生が北海道の東端、
中標津町開陽台に文化村をつくり村長に就任したという新聞記事をみて、
突然渡辺先生にこんな手紙を寄せてきたことです。
「私は自分の生活の中で痛切に自然を求めています。北海道であなたがお造りになる新しい文化村の建設のために私を働かせてください」
渡辺先生の自宅を訪れた中野青年は、”牧夫でも管理人でも”と熱心に自分の希望を述べました。


そこで”昭和四十四年初夏、みんなで開陽台へ出掛けますので、あなたも案内しましょう。
現地を見た上でもう一度考えてみたら”ということになり再会を約して別れました。
中野青年はその日の来るのを夢にまで見ました。
ところが人間の運命とはなんとはかなく皮肉なものでしょう。
北海道へ出発を一週間前にして、中野青年は会社の作業中殉職してしまったのです。

 ここでふと感ずるのが、「赤いDUCAの彼」の話と、この中野青年の話が多くの類似点を持っていることだ。赤いMHRの話は、あの夏の夜の語りべだった彼が、この中野青年の話を鋳型として、創作したものにすぎないかもしれない。あの夜以降、僕は二度と、誰からもその話を聞くことはなかったし、僕自身、人に話して聞かせることもなかった。あの夜の交わりも、一期一会を旨とする限りにおいて、日常に存えることはない。

 ことの真偽は知らない。また問うべくもない。たとえそれが誰かの作り話に過ぎないにしても、僕にとっては何よりの真実であり続けるからだ。こころの頂でつかんだ瞬間の想いは、訪れ、たちまちにして過ぎ去ってゆく。それを日々の中に紡ごうとすれば色あせるだけだ。すべて尊いものとは、そうしたものなのかもしれない。束の間で、不安定で、なんとなく胡散臭い。それは二度とは触れられぬものであるがゆえ、記憶の中の結晶として、なによりも永遠にほど近く輝きを増す。

 去年は、折しもペルセウス流星群の盛り、久しぶりに開陽台で夜を過ごした。新しい展望台は、新しい若者・新しいキャンパーで賑わい、流星が尾をひくたび、大きな歓声がどよめいた。こうした若者達の、他愛もない喧噪に、自らを無防備にあけ放ち、心地よくそれを楽しむことができるのは、ここが開陽台であるからに違いない。如何に時代が移り変わり、価値観が変容しようとも、開陽台の眺望は、初めてそれを見るものに、あの17歳の夏、初めて僕がそこにたどり着いた時に、涙せずにはいられなかったのと同じ感動を、与え続けるだろう。

 時代の変化に対して批判的であることも、郷愁に閉じこもることもたやすい。困難なのは、時流に迎合しない態度を貫きつつも、いかに自らを今日に対して開き続けるかであり、出来事への郷愁から、より高められた明日への、何かを模索し続けることである。そうした「しなやかな好漢」こそが、ここ開陽台にはふさわしい。

 

僕が求めているのは絶対の自由ではなかろうかと此頃少しづつ気付きはじめています。
そこで自分を束縛するのは宇宙の法則だけだというようなそんなユートピアが欲しい。
恐らく僕はそんなユートピアを求めて一生漂泊するような気がする。

(昭和43年11月2日の中野英輔氏の日記より)

 

 


開陽台キャンプサイト 2007年盛夏

 

追記

 開陽台は公なキャンプ場ではなく、ひとえに中標津町の皆さんの寛容によって存続しております。いわば見ず知らずの他人の家の軒下を借りて雨宿りしているようなものだとお考えください。近隣でのキャンプだけが目的でしたらば、「中標津町緑ヶ丘森林公園キャンプ場」の方が快適ですので、こちらのご利用をおすすめします。
 もし開陽台でキャンプなさるなら、上の画像の左下の部分が単車を駐車可能な場所で、ここへ至るには駐車場トイレ脇の”ケモノ道”を登ることになります。開陽台駐車場への進入路から直進する砂利道(上の画像のキャンプサイトを取り囲んだ道)は進入禁止です。このようなルールというか、最低限のマナーがありますので、予め展望台内売店の方に「キャンプしても良いでしょうか?」と一声お掛けになることを御勧めいたします。



 

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